2009年12月05日

入浴

入浴(にゅうよく)とは、主に人が身体の清潔を保つことを目的として、湯や水・水蒸気などに身体を浸すことを指す。
紀元前1世紀ごろから、中央アジアで蒸し風呂があったと思われる。これは、高温に加熱した石に水をかけることで蒸気を発生させて入浴を行った。燃料などが少なくて済み手軽に使用できたため、冷水による入浴に適さない地域で広まった。中東では、この蒸し風呂が、公衆浴場(ハンマーム)となった。またロシアや北欧に伝わりサウナの原型ともなった。

紀元前4世紀頃の、ギリシアの都市に公衆浴場が存在した。

ローマ帝国時代には、各植民都市に共同浴場が作られた。入浴様式は、蒸し風呂の他に、広い浴槽に身体を浸かる形式もあったようだ。217年につくられたローマのカラカラ大浴場は、2000人以上が同時に入浴できたといわれている。 古代ローマの入浴は、官営病院を持たなかったローマ人の感染予防施設としても使われた。

ローマの共同浴場は、時代の流れとともに、大衆化し社交場・娯楽施設としての意味が増してきた。一方で、売春や飲酒蔓延、怠惰の温床にもなった。
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次第にキリスト教の厳格な信者からは、ローマ式の入浴スタイルは退廃的であるとされ、敬遠されるようになった。その後、中世に十字軍によって再び東方から入浴の慣習が伝わったものの、今度は教会が入浴の行為は異教徒的として非難した為に、その後は入浴の習慣は無くなっていった。また共同浴場は、梅毒やペストなどの伝染病の温床というイメージも入浴を衰退させる原因になった。結果、キリスト教徒の間では、入浴は享楽の象徴とされ忌み嫌われ、シャワーが主流になっていった。

中世ヨーロッパ(特にフランス)では、風呂に入ると皮膚の常在細菌が洗い流されて逆に病気になる、と信じられてきた。ヴェルサイユ宮殿のバスタブは、建設された当初は使われていたものの、その後はマリー・アントワネットが嫁ぐまで使われなかった。

2009年11月29日

童増

童増(どう ぞう)は中華人民共和国の反日民族主義団体「中国民間保釣聯合会」(保釣)主催者。反日愛国主義者の代表格の人物。また中国における数々の反日デモ等の仕掛け人でもある。

1991年「一刻の猶予も許されない中国の対日損害賠償要求」(「中国要求日本受害賠償刻不容緩」)と称する上申書を全人代に提出し、以後日本国内で慰安婦に対する賠償訴訟を支援するが、現在まで勝訴に至ったケースは無い。

2003年12月27日、中国のアモイで「中国民間保釣聯合会」を設立。2005年には文藝春秋の企画で来日計画があった。「日本の右翼を正してやる」など強気の発言をしていたが、ビザ取得を断られたとして来日はしなかった。
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その後3月から4月にかけて、四川省、北京市、上海市などで起こった反日デモでは保釣が支援をしていたことが判明し、「民間」と名乗ってはいるものの強力な後ろ盾がいることがうかがえる。なお5月4日にもデモを行う意思があると保釣のサイトで明かしていたが、突然「大局を考慮する」として延期となった。後ろ盾が反日デモの規模拡大を抑えるために切り捨てたものと考えられる。その後彼らのような活動家はホテルなどで「監禁」生活を送ったという。

2006年、中国国内で在中日本企業に対する賠償請求を行う中国民間対日賠償請求連合会を立ち上げたが、政治的な思惑から現在中断されたままである。

なお「文藝春秋」誌にインタビューが掲載(2005年9月号)されたことがある。

2009年11月25日

日蓮

日蓮(にちれん)(1222年3月30日(貞応元年2月16日)) - (1282年11月21日(弘安5年10月13日))は、鎌倉時代の仏教の僧。法華経の題目を重んじる諸宗派が宗祖とする。死後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。

1222年(貞応元年)2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で誕生。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠、母は梅菊とされている。日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。
1233年(天福元年)に清澄寺(せいちょうじ)の道善に入門。
1238年(暦仁元年)に出家し「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。
1240年(仁治元年)に比叡山へ遊学。また高野山でも勉学に勤しむ。
1253年(建長5年)清澄寺に帰山。4月28日朝、日の出に向かい、「南無妙法蓮華経」の題目を初めて10回唱え(立教開宗)、この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。
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1254年(建長6年)に清澄寺を退出。鎌倉に出て弘教を開始。このころ日蓮と名のる。
1257年(正嘉元年)の鎌倉の大地震を体験、実相寺で一切経を読誦、思索する。
1260年(文応元年)7月16日に立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。その後、ふたたび布教をおこなう。
1261年(弘長元年)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪(伊豆法難)。

2009年11月07日

まだ人類が狩猟と採集のみで暮らしていた時代に

まだ人類が狩猟と採集のみで暮らしていた時代に、ラスコー洞窟やアルタミラ洞窟などで、非常に描写力の高い壁画が描かれていた。これは捕獲対象の鳥獣を詳細に記録し、大猟を願う意図で描かれたと推定されている。

これらは目に見えるがままの図像を得る目的のみのために描かれていたため、写真技術が発達した近代になってようやく確認された、草食獣が走るときの足の動きまで正確に描写されていた。この頃は、現在の高性能カメラとしての役割を画家が果たしていた。

これらの壁画は、自然の洞窟の壁面に、土・炭・血液・樹液等から作った顔料(絵の具)で、動物の体毛・樹木の枝・指などを用いて描かれていた。
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人間が社会を形成し始めた古代においては、社会の内に分業という概念も発生、権力者や宗教といった観念の発達から、次第に呪術的意図と平行して美術装飾としての画家の活動も古代墳墓の壁画などに見出されるようになっていった。しかしこの時代の絵画で現存するものは限られる。反面、文字の発生に先立って何らかの意図を図画で記録する様式も強まり、墳墓壁画には当時の歳時記など人間の生活を捉えたものも数多く見出されている。

また、社会の発生は人間の活動の多様化も発生させたが、その中ではポンペイの例に見るように、装飾壁画として現代の絵画にも通じる美術性が当時確立されていたことが伺われる。

2009年10月29日

鉛蓄電池は放電し切ると

鉛蓄電池は放電し切ると、負極板表面に硫酸鉛の硬い結晶が発生しやすくなる。 この現象はサルフェーション(白色硫酸鉛化)と呼ばれる。 負極板の海綿状鉛は上述のサルフェーションによってすき間が埋まり、表面積が低下する。 硫酸鉛は電気を通さず抵抗となる上に、こうした硬い結晶は溶解度が低く、一度析出すると充放電のサイクルに戻ることができないので、サルフェーションの起きた鉛蓄電池は十分な充放電が行えなくなり、進行すると使用に堪えなくなる。
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しし座流星群
スペシャルショートケーキ
だるまさんがころんだ
ドラミ地域で探す
ハイビスカス・ローゼル
ピーターパン
ふしぎ発見
ぼくのクレヨン

一方、正極板の二酸化鉛は使用していくにつれて徐々にはがれていく。 これを脱落と呼び、反応効率低下の原因となる。

鉛蓄電池が使用できなくなるのは、これらの電極劣化による容量低下が主な原因である。 鉛蓄電池は、他の二次電池と異なりメモリー効果が無いため、過放電を避けて使用後すぐに充電を行い、いつも充電容量を満たしておく運用が望ましい。深い放電を行うと劣化が早く、そのような使い方をすれば数回程度の使用で使用不能に陥るおそれもある。

空になるまで放電させる用途のために電極を改良したディープサイクルバッテリーも存在する。
従来の電極の格子を構成する単なる鉛に代わって、新たな電極格子の材質として鉛、スズとカルシウムの合金が使われている。こういった材質の工夫などで自己放電が著しく減少し、最近では1年に20%程度しか消耗しない。

2009年10月18日

ロッキートビバッタの群れの大きさ

1870年代にネブラスカ州を襲ったロッキートビバッタの群れの大きさは、幅160キロメートル、長さ500キロメートルである(この面積は日本の本州全面積の3分の1ほどである)。平均高さ800メートル、場所によっては1600メートルであったと報告されている。また、同じ場所では6時間以上にわたって観察された。この群れが移動するため、被害面積はこれよりもはるかに大きくなる。ただしこれは観察された最大級のサイズの群れであり、通常はここまで大きな群れになることはない。
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群れの個体数に関して確からしい値としては、1958年に写真を使ったサバクトビバッタの観察結果で、1立方メートル当たり17匹、個体数500億匹、重さ11万5000トンという値が報告されている。サバクトビバッタは比較的大型のため、他のバッタではもっと密度が高い可能性がある。ただし、近年であっても目視による観察ではかなり過剰に報告されることが多い。

蝗害を与えるバッタの種類としては、バッタ科 のうち相変異をするものである。被害が大きいことで有名なのは次の通りである。
世界で発生するバッタ対策は国際連合食糧農業機関(FAO)などが行っている。

現在、蝗害が大きな問題となっているのはアフリカ中部・北部、アラビア半島、中近東、アフガニスタンなどである。これらの地域で発生するバッタ対策は、ローマにあるFAOの機関、サバクバッタ情報サービスを中心に行われている。

2009年06月19日

電子顕微鏡(でんしけんびきょう)とは

電子顕微鏡(でんしけんびきょう)とは、通常の顕微鏡(光学顕微鏡)では、観察したい対象に光(可視光線)をあてて拡大するのに対し、光の代わりに電子(電子線)をあてて拡大する顕微鏡のこと。電子顕微鏡は、物理学、化学、工学、生物学、医学(診断を含む)などの各分野で広く利用されている。
化学物質過敏症
特定疾患
オーケストラ
バーベキュー
スキンケア
学童保育所
衛生
合気道
ホスピス
試写会
材料科学
システム工学
哺乳類
クリスマス
遺伝子疾患
食品添加物
ボクシング
履歴書
バレーボール
労働組合

高分解能の観察が可能
光学顕微鏡の分解能(2つの点が「2つの点」として分離して観察される最短の距離)の限界は、可視光線の波長によって理論的に100ナノメートル程度に制限されており、それより小さな対象(例:ウイルス)を観察することはできない。一方、電子顕微鏡では、電子線の持つ波長が可視光線のものよりずっと短いので、理論的には分解能は0.1ナノメートル程度にもなる(透過型電子顕微鏡の場合)。光学顕微鏡では見ることのできない微細な対象を観察(観測)できるのが利点である。現在では、高分解能の電子顕微鏡を用いれば、原子レベルの大きさのものを観察(観測)可能である。
光学顕微鏡より高倍率?
一般に誤解されがちであるが、電子顕微鏡の光学顕微鏡に対する利点は倍率ではなく分解能である。光学顕微鏡でも写真を拡大したり、高倍率の接眼レンズや中間レンズを用いれば、理論的には無限に高倍率の画像は得られる。ただし分解能以下の対象はどれだけ倍率を上げても細部は見えてこないので無意味である。
大がかりな装置
電子線を発生させるのに用いられる電子銃の性質から、数キロボルトから数百キロボルト、時にはそれ以上の高電圧が必要である。また、安定した電子線のため、顕微鏡内は、真空に保たれていなければならない。したがって、高電圧の発生装置や真空ポンプ、顕微鏡自体は耐圧構造でなければならないなど、装置が大がかりになりがちで専用の部屋が必要なこともある。市販されている電子顕微鏡の価格も種類によって数百万円から数億円程度である。

2009年06月01日

近代陸軍の黎明期(世界)

第一次世界大戦頃までは、山岳師団などを含む歩兵師団と、騎兵師団くらいしか存在しなかったが、陸軍の近代化とともに機甲師団、空挺師団などのさまざまな兵科師団が置かれるようになった。

山岳師団は山岳戦闘を専門とする師団で、登山に必要な装備や訓練を受けている場合が多い。山岳では運搬が困難な重砲は装備していないが、分解して人力で運搬可能な山砲を装備していた。空挺師団は落下傘降下(エアボーン)によって部隊が展開される師団であり、山岳師団同様に重砲の装備はなかった。機械化歩兵師団は、部隊の移動が徒歩ではなく装甲車やトラックのような自動車によって行なわれた師団のことであった。米海兵隊の海兵師団は上陸戦用の歩兵師団であり、揚陸艇や揚陸艦によって展開される歩兵師団であった


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21世紀初頭現在では、各種師団も変様し、山岳師団であっても戦車を保有し、空挺師団の侵攻方法も落下傘よりはヘリコプターや車輌が中心となり、機械化歩兵師団も自動車が行き渡った現在においては、徒歩以外での移動手段を保有せず必要に応じて他の部隊から機械力の助けを借りる軽歩兵師団と呼ばれる歩兵師団以外は、全ての歩兵師団が機械化・自動車化されているといえる。米軍の海兵師団も舟艇による着上陸と同様に、ヘリや垂直離着陸機による侵攻手段を備えている。中世からの乗馬による戦闘部隊であった騎兵師団は銃砲の発達で一度無くなったが、師団より小さな規模でのヘリコプター主体の部隊名に使用されるようになっている
明治21年(1888年)5月12日に6個鎮台を廃し、それに代って6個師団が置かれた。これが常設師団の始まりである。大日本帝国陸軍では、恒久的な部隊である歩兵連隊と他の諸兵科を以って組織された戦略単位である師団という単位を重視し、陸軍中将を以て補し更に特に親補職としていた。日中戦争開戦以前の平時に於いて、海外領土等には朝鮮軍・台湾軍・関東軍・支那駐屯軍の4軍があったが、このうち隷下に常設師団を持つのは朝鮮軍[1]のみであり、他は師団と比べて規模兵力が特に大きかったとも言えず、大日本帝国陸軍とは、内地に於ける師団と、海外領土等に於ける或いは臨時に編成される軍との集合体であるとも言え、それぞれ統帥権者である天皇[2]に直隷し、天皇の下に大日本帝国陸軍総司令官といったような軍職は無かった。

また、内地に於ける日本軍の戦略組織は師団のみであり、常設師団が内地での軍政および作戦と教育を担当した。このため、有事の際に師団が外地に出征すると、内地に留守師団(るすしだん)が置かれた[3]。

なお、太平洋戦争開戦から末期にかけて、4乃至3個歩兵連隊を基幹とした通常の師団の他に、戦車師団・高射師団・飛行師団等の、専門部隊のみの師団が編成された。これら専門部隊のみの師団は、管区を持たず軍政には関与せず、作戦に於いても、他部隊との連携を前提としたもので、単独での作戦遂行を目的としたものではない。飛行師団に至ってはその多くが特攻を目的としたもので[要出典]、戦略単位とされる師団とは性格が異なっている。

2009年04月29日

問丸

丸(といまる)は、年貢米の陸揚地である河川・港の近郊の都市に居住し、運送、倉庫、委託販売業を兼ねる組織。

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鎌倉時代頃から組織され、取扱うのは主に荘園からの年貢米。最初は、荘官らが必要上始めたとされる。問(とい)とも呼ばれる。

鎌倉時代末になると問丸は、港湾を所有する領主に隷属して仕事をするだけではなく、その港湾を利用する他の領主の要求にも応じ、年貢米の輸送管理を引き受け、港湾所有領主への隷属を脱し、仲介業者または運送業者として独立した。

後には、様々な展開を見せ始め、一般の商品も取り扱うようになって室町時代には問屋へと展開するものや、現地の港湾からの流通に対する独占的権利を確立して港湾支配を確立したものの、逆に特権によって他者の流通を妨げる存在に成長したために楽市楽座政策によって座とともに解体に追い込まれたものもある。

2009年04月14日

劉邦(りゅうほう)は前漢の初代皇帝。

沛県の亭長[1]であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となる。その後に東進して垓下に項羽を討ち、中国全土を統一、前漢を興した。

出生 [編集]
沛県郡豊県中陽里(現在の江蘇省徐州市沛県)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生した。長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。生年については二説ある。

劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという。また、諱の「邦」は『史記』では記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは後漢の荀悦『漢紀』に記され、『史記』『漢書』の注釈でそれを引用している[2]。出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく正しいと思われる。また、字の「季」は「末っ子」のことである[3]。

劉邦の容姿は鼻が高く、立派な髭をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという。また太股に72の黒子[4]があった。

任侠生活 [編集]
反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活していた。縁あって沛東に位置する泗水の亭長(警察分署長)に就任したが、任務に忠実な官人ではなかった。沛の役人の中に後に劉邦の覇業を助けることになる蕭何と曹参もいたが、彼らもこの時期には劉邦を高くは評価していなかったようである。しかし何故か人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり店が満席になったと伝えられる。またこの任侠時代に張耳の食客になっていたともいう。

ある時に劉邦は夫役で咸陽に行った事があったが、そこで始皇帝の行列を見て、「ああ、男たる者はああ成らなくてはいかんな」と言った。この言葉は項羽が同じく始皇帝の行列を見たときに言った「あいつに取って代わってやる」という言葉とよく対比され、劉邦と項羽の性格の違いを表すものとして使われる。

あるとき、単父(山東省)の人・呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た。名士である呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。沛の人々はそれぞれ進物に金銭を持参して集まったが、あまりに多くの人が集まったので、蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうと提案した。そこへ劉邦がやってきて進物を「銭一万銭」と呂公に伝えた。あまりの金額に驚いた呂公は慌てて門まで劉邦を迎えて、上席に着かせた。蕭何は劉邦が銭など持っていないのを知っていたので、「劉邦は前から大風呂敷だが、実際に成し遂げた事は少ない(だからこのことも本気にしないでくれ)」と言ったが、呂公は劉邦を歓待し、その人相を見込んで自らの娘を娶わせた。これが呂雉である。

妻を娶ったものの劉邦は相変わらずの侠客であり、呂雉は実家の手伝いをし、2人の子供を育てながら生活していた。ある時、呂雉が田の草取りをしていた所、通りかかった老人が呂雉の人相がとても貴いと驚き、息子と娘(後の恵帝と魯元公主)の顔を見てこれも貴いと驚き、帰ってきた劉邦がこの老人に人相を見てもらうと「奥さんと子供たちの人相が貴いのは貴方がいるためである。あなたの貴さは言葉にすることが出来ない」と言い、劉邦は大いに喜んだという。『史記』には他にもいくつかの劉邦が天下を取る事が約束されていた との話を載せている。ただ、それらの逸話の中で劉邦は赤龍の子であるとする逸話は漢が火徳の帝朝と称することに繋がっている。

反秦連合へ [編集]

陳勝・呉広の乱と挙兵 [編集]
ある時、劉邦は亭長の役目を授かり、人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡し、やけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がし、自らも一緒に行くあてのない人夫らと共に沼沢へ隠れた。

紀元前209年、陳勝・呉広の乱が発生し反乱軍の勢力が強大になるとと、沛の県令は反乱軍に協力するべきか否かで動揺、そこに蕭何と曹参が「県令では誰も従わない、人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ。一旦はこれを受け入れた県令であったが、劉邦に使者が行った後に考えを翻し、沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした。劉邦は一計を案じて絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ(中国の都市は基本的に城塞都市である)。その手紙には「今、この城を必死に守った所で、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。今のうちに県令を殺して頼りになる人物(劉邦自身のこと)を長に立てるべきだ」と書いてあり、それに答えた城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れた。しかし、劉邦は最初は「天下は乱れ、群雄が争っている。自分などを選べば、一敗地に塗れることになる。他の人を選ぶべきだ」と辞退した。しかし、蕭何と曹参までもが劉邦を県令に推薦したので、劉邦はこれを受けて県令となった。以後、劉邦は沛公と呼ばれるようになる。

この時劉邦が集めた兵力は2、3千という所で、配下には蕭何・曹参の他に犬肉業者をやっていた義弟の樊噲、劉邦の幼馴染で同日に生まれた盧綰、県の厩舎係をやっていた夏侯嬰、機織業者の周勃などがいた。

この軍団で周辺の県を攻めに行き、豊の留守を雍歯という者に任せたが、雍歯は旧魏の地に割拠していた魏咎に誘いをかけられて寝返ってしまった。怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った。当時、陳勝は秦の章邯の軍に敗れて逃れた所を殺されており、部下の景駒が甯君と秦嘉というものに代わりの王に擁立されていた。劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が必要だと考えて、景駒に兵を借りに行く。

紀元前208年、劉邦は甯君と共に秦軍と戦うが敗れて引き上げ、新たに碭(トウ、現在の安徽省碭山。碭は石偏に昜)を攻めてこれを落とし、ここにいた5、6千の兵を合わせ、更に下邑(河南省鹿邑)を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めてやっと落とした。

豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に入れていた。張良である。張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧韓の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた。張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法をさまざまな人物に説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。ところが劉邦は出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦の事を褒め称えた。これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れ、ついには天下をつかむことになる。劉邦と張良の関係は君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる。

その頃、景駒は項梁によって殺され、項梁が新たな反秦軍の頭領となって、旧楚の懐王の孫を連れてきて楚王の地位につけ、祖父と同じく懐王と呼ばせた(後に項羽より義帝の称号を送られる)。劉邦は項梁の勢力下に入り、項梁の甥である項羽と共に秦軍と戦う。

項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、章邯軍の前に戦死した。劉邦たちは遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の江蘇省徐州市)へと集結した。項梁を殺した章邯は軍を北へ転じて趙を攻め、趙王の居城鉅鹿を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。そこで懐王は宋義・項羽・范増を将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。そして懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者をその地の王とするだろう」と約束した。

趙へ向かった項羽は、途中で行軍を意図的に遅らせていた宋義を殺して自ら総指揮官となり、渡河した後に船を全て沈めて三日分の兵糧を配ると残りの物資を破棄し、退路を断って兵士たちを死に物狂いで戦わせるという凄まじい戦術で秦軍を撃破、一気にその勇名を高めた。しかしその後、咸陽へ進軍する途中で秦の捕虜20万を生き埋めにするという、これも凄まじい虐殺を行う。このことは後の楚漢戦争でも項羽の悪評として人々の心に残り、多大な影響をもたらす事になる。

関中入り [編集]
劉邦は西に別働隊を率いて行ったが、その軍勢は項羽軍に比べて質・量ともに劣っており、道々苦戦しながら高陽(河南省杞県)という所まで来た。ここで劉邦は儒者酈食其の訪問を受ける。劉邦は大の儒者嫌いで、酈食其に対しても、足を投げ出してその足を女たちに洗わせながら面会するという態度であった。しかしこれを酈食其が一喝すると、劉邦は無礼を詫びて酈食其の進言を聞いた。酈食其は「近くの陳留は交通の要所で食料が蓄えられているのでこれを得るべきである。城主は反秦軍を脅威に思っているので、降っても身分を保証すると約束して頂ければ、帰順させるよう説得する」と言った。劉邦はこれを採用し、陳留の城主は説得に応じて降り、交通の要所と大量の兵糧を無血で手に入れた。さらに劉邦はその兵力を合わせて進軍し、開封を攻め落とした。次いで韓に寄り、寡兵で苦戦していた韓王成と張良を救援して秦軍を駆逐し、韓を再建。そしてその恩義を以って張良を客将として借り受ける。

更に南陽を攻略し、この城主が逃げ込んだ宛(河南省南陽)を包囲、降伏させると、秦の領域へ近づいていった。この侵攻の際、劉邦は陳留のように降伏を認め、降伏した場合は城主をそのままの地位に任命したため無駄な戦闘はしておらず、その進軍は項羽よりも早かった。そしていよいよ関中の南の関門である武関に迫った。

この頃、趙で項羽が秦軍の主力を撃破し、秦の内部では動揺が走った。始皇帝の死後、二世皇帝を傀儡として宦官趙高が専権を奮っていたが、この敗戦がばれれば自分が責任を取らされると考え、二世皇帝を殺し、紀元前207年になってから劉邦に対して関中を二分して王になろうという密書を送ってきた。劉邦はこれを偽者だと思って、自らの軍を持って武関の守将を張良の策によってだまし討ちにし、これを突破した。この後、趙高は王に建てようとしていた子嬰におびき出されて逆に殺されている。

続く嶢関は秦最後の砦のため決死の兵が守っていたが、守将が商人出身であり、計算高いことを利用した張良の策により、大量の旗を重ねて大軍のように見せかけておいて、降るように誘った。この策は成功し、守将は降ることを約束したが、張良は兵達は決死なので降ることはないと察しており、あくまで油断させるためのものだった。劉邦の軍は砦に入るや否や守備隊の不意をついて攻めかかって制圧し、嶢関を突破した。こうして劉邦軍は関中に入る。最早阻むものはなく、秦都・咸陽は目前となった。

秦王子嬰は覇上にまで迫っていた劉邦の所へ白装束に首に紐をかけた姿で現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏した。部下の間には子嬰を殺してしまうべきだという声が高かったが、劉邦はこれを許した。

咸陽に入城した劉邦は宮殿の中の女と財宝に目がくらみ、ここに留まって楽しみたいと思ったが、樊噲と張良に諫められ、覇上へ引き上げた。田舎の遊び人だった劉邦にとって、咸陽の財宝と後宮の女達は極楽にさえ思われただろうが、部下に諌められると一切手を出さなかった。こうした諌言を聞き入れる劉邦の度量と配下への信頼は、項羽と対照的であり、その後の天下統一にも非常に大きな作用をもたらすことになる。ちなみにこの時、蕭何は秦の文書殿に入って法令などの書物を全て持ち帰っている。これがその後の漢王朝の法の制定などに役立ったと言われている。

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